これはやはり、ジャズの本だ。いまやオーディオが存在しなければ聞くことが出来ない、ジャズがジャズで合った時代のジャズを、21世紀の今、オーディオを通じてどう聴くか。それが見事に、彼の言葉で描かれている。
ジャズは過去に多くの評論家が論じ、そして書いた。さらに今もかつてと変わらぬ次元で書き直されている。
けれどここに書かれたジャズは、まるで位相が違う。ジャズミュージシャン「山口孝」が、この本に登場するジャズの巨人になりきって、彼らの台詞を全部暗唱し、さらに完全に自分の言葉に消化し、今この本の中で、生で演じている。その姿は彼らの分身と化した「山口孝」であり、スイングしまくっている。
昔から「山口孝」がライブで発する鋭い言葉は、誰にも真似できぬほどの冴えがある。そこに僕は10代からステージに立っていた人間ならではの本能を感じざるを得ない。この本はCS放送でのトークライブを書き起こしたもの。面白いのも当然だ。
繰り返すが、世間には伝統的筋書きにのっとったジャズ評論、レコード紹介書が数多とある。けれどその多くは古典的評論の朗読であったり、対岸の火事の解説であったりで、隔靴掻痒のもどかしさを禁じ得ないものだった。
もしジャズを頭でなく心で感じたいと願うならば、この本で紹介される名演を手塩にかけたオーディオで思いっきりスイングさせるがいい。
最終章、一関ベイシーの菅原氏との対談。一人称の語りという形式を借りてはいるが、五分と五分の対談であり、二人のジャズオーディオ人生から得た結論がここにぎっしりと集約されている。オーディオの「オ」の字も出さず、たった一つのブランド名も出さずにオーディオの神髄を描いたこの章こそ、本書のハイライトだと断言しよう。オーディオを語るとは、こういうことを云うのだ。過去から現在に至るオーディオエッセイの多くは、登場する機器をカメラや車のような「機械モノ」の名前に置き換えても、実は成り立つてしまう。そのことにうすうす気が付いている人も少なくないはずだ。そういう愛用の機器に淫したような、「よくあるオーディオエッセイ」との本質的差異をこの最終章で読みとって欲しい。この一文を僕は、「まぎれもなくオーディオ史に残る見事な評論文」と言い切ることにいささかの躊躇もしない。
2004年8月、僕らは、まさに痛快の一冊に出会えたといえよう。
(あとがき)
この一文を書いた後、僕は彼、山口孝氏に出会った10年前を思い出した。 NY行きの飛行機の中で偶然隣り合わせた彼。話が弾み意気投合。毎晩、深夜までジャズクラブ巡りをした懐かしき日々だ。帰国後に聴いた驚愕のパラゴンサウンド。彼の異才に気づいた僕は知り合いの編集者達に誰彼なく彼を紹介して、注目を促していたものだった。その後、誌上で出会う彼は一応、評論家だ。けれど本質は評論家ではなくアーティストなのだ、と僕は思う。そういうことをこの頁にいつか遠くないうちにまとめて紹介してみたい。それはあのパラゴンサウンドが僕に示唆してくれたことを語ることに、きっとなることだろう。