さて、何から書き始めようか。
「MJ・無線と実験」誌に「音まみれの日々」を連載していた頃から、随分と月日が流れた。その間にサラリーマンを辞め、独立なんぞしてしまったものだから、時の経過が3倍ほど早くなった気がする。
独立の経緯はいずれ書くことにして、まずは近況を。
ここ数年、DACだのケーブルだのを持って、お客様のところに行くことが多い。仕事を離れて、全く昔と同じく道楽の仲間として、マニア訪問も相変わらず続いているのだが…。
俗世間ではオーディオマニアが10人いると10とおりの音があると云われる。それが聴き手の個性だとも。まあ僕もそれを信じていたのだが、最近はチョッと待てよ、という気になってきた。
従来の概念でいえば、昔のタンノイやアルテックと、最新鋭の巻き貝ノーチラスなんかは天と地か、日本とアメリカほど違う筈でしょう。
以前、大阪のタンノイを長年愛用されている方をお訪ねした時のこと。あれは確かモニターレッド。最初の一音を聴いて僕は驚嘆。日頃の我が家とそっくりの音。
旧型タンノイとは思えないワイドレンジ、かつフラットな音。よくよく見ると、部屋の端っこでスーパーウーハーが僅かに鳴っているらしい。イオン型のツイータも微かに動作しているとか。 それにしても、こなれた音だったなあ。
最近、あの前衛的な巻き貝ノーチラスオーナーの方々とも親しくなった。TADを使っている僕の耳にどう聞こえるのかって?正直にいえば、3,4年前、初めて聴いたときは、清澄だけれど音楽に潜む魔性を感じなかった。ウーハーがもう1個欲しい、とも。
ところがこの夏、異変が起きた。 さる巻き貝オーナー宅で、「出ちゃった」のです。分厚い中低音に包まれ部屋中が音の立体空間に!もうジャンル、年代を問わず、音楽が「鳴る」状態になって、何でも来いの横綱相撲。 そのとき、ノーチラスオーナーが3家族7人がいて、音が決まったその一瞬、全員が「これでいい」と。そう音が「決まる」と、その瞬間は満場一致、首を傾げる人がいない状態になるのですね。
実はここに集合した全員の方が、その数週間前、我が家にいらして、中低音の厚みに驚かれたのである。ある人なんかはノーチラスはやはりプラスティックの音だ、なんて自虐的な発言もされていた。
ところが、いざ出ちゃったら、「さっすがノーチラス!凄い凄い」になってTADの私は肩身が狭い。でもその方ノーチラスに惚れているなあ、とつくづく思うのです。
東京の片隅で、英国風の極めて趣味の良い喫茶店を営む方がいる。アルテック416を2個、600リットルは有ろうかという大型キャビにいれ、悠々と音楽を流している。20数年前の作。ここのカレーは絶品。EMT930が、壊れるといけないから、と3台回っているアナログ愛好家。レコードの洗浄に何か特殊なノウハウが有るらしく、ぴかぴか。スクラッチ皆無。イチゲンの客はCDで聴いていると思うらしい。音が、というより音楽がナチュラル。ノーチラスの最高コンディションの音を聴いた僕の耳に何の違和感も無い。
いい音って、そんなに差があるモンじゃないんですよ。僕は最近、そう、発言している。
多くのオーディオマニアが音で悩んでいる。大体悩んでいるときは、酷な言い方だけれど、まあ、あまりいい音じゃない。その音を個性というのは、まあ日本的婉曲表現とでもいいましょうか。
再生音は大別して、2種類あると断言しましょう。 音楽の生命を感じる音と、そうでない音。生命感が出ると、細かいことは余り気にならない、という結論に達した。
ところで最近、大発見をした。いい音を出している人の共通項だ。 それは自分の装置、スピーカなりアンプなりを信じているということ。たとえば、自分のスピーカーは世界最高だ、と。今は鳴らなくても必ず鳴るようになると…。
いずれ下取りに出そうとか…。買ったときからそんな邪心を持っていれば、機械だって笑顔は見せないものだ。疑心暗鬼で機械を睨み、音が悪いとボヤいていたら永延に音の女神は微笑まない。いい音を出すコツ。それは至極簡単なことなんですよ。
1 滅多に製品を買わない。
2 見る目聴く耳を育て、基本を押さえる。
3 ここぞという時には、自分の選択眼の名誉をかけて買う。音質の結果責任、自分にあり。
うーむ、いかにも分かった風な発言だな。まるで親爺が息子に説教しているようだ。
しかし親爺の説教を素直に聞く息子なんて、この世にいない。無駄金を使い失敗を続けながら、自分なりの発見しているときこそ、実はオーディオが一番面白い時期ではないか。これぞまさに道楽。