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Vol.17 山口孝さんのこと(1)


 

Vol.17 山口孝さんのこと(1)


オーディオ誌に情熱的な音楽記事を寄稿している山口孝さんのことを、いつかは書いてみようと思っていた。

が、それよりも早く、氏が新しい本を出版された。 今回は私家版ということで、この紹介文が目に入る頃にはちょっと入手が困難な状況になっているかも知れない。 その点は申し分けないのだが、ここでは本の紹介を通じて、音楽の語り部たる山口氏について少しでも書けたらいいな、という気持ちで筆をとることにした。

さて、その本のタイトルは「JazzAudio Wake Up」。 この本、初版はVol.15ですでに紹介している。 其処に記述してあるように元々CS放送のトークライブを、ほぼそのまま単行本化したものだった。

JazzAudio Wake Up

その第二版の出版計画にあたり、氏は、初版ではライブの記録という色合いが強かったものを、書籍として長く読まれることを意識して、全面的に書き改める事を望んだ。
それが結果として、商業ベースに乗らない私家版を生み出すことになったのである。
初版の冒頭にも、ご本人の言葉がある。
「(最初、出版社から単行本化の話しがあったとき)この番組が電波の彼方のリスナーに向けてのトークであり、後々まで残すものとは考えていなかったから、丁寧にお断りした」と。
如何にも山口さんらしい返答ではないか。

その後、編集者の熱意にほだされ、初版は世に出た。
しかし、彼の心の中にある、後々に残すものとして自らの心に納得できる作品としておきたい、という想いが、今回の私家版という形になったと僕は理解した。

彼のポジションは今、世間的には評論家という立場になろう。
しかし、その経歴をよく知る人は、本質がステージの向こう側にいるべき人、つまり作品を生み出す側にいる人間であることをよく知っている。

彼はJBLのパラゴンを愛用している。アナログプレイヤーはEMTだ。
どちらもオーディオの歴史に燦然とその名を残す名器であり、音だけでなく、完璧なまでのデザイン美を誇るもので、その存在感たるや他を寄せ付けない。
このスピーカーでなくても、このプレイヤーでなくても、音楽は十分に聴けるし、分かるし、伝わってくる。
しかし、彼の目と耳が、いや彼の価値観がこれらを認め、選び、愛用し、その座を他に譲らないのだ。

同じ論で言うと。
氏のジャズオーディオに対する思想は、初版でも、読み込めば十分に伝わってくる。
しかし、この本は学者の論文ではない。
氏が精魂込めて生み出した作品なのだ。
彼の価値観ならば当然、私家版という形をとってでも、完璧な形で残したくなるはずだ。
モノを生み出す人間の精神とは、そういうものだから。

デザインもすべて氏の手によるもので、写真の通り鮮烈なコントラストが目に飛び込む。
限定40部。さりげなくシリアルナンバーが付いている。
そのナンバーが入る場所のデザインは、オーディオファンなら知らぬモノはいない、あのビックリマークだ。

トークライブでは、その場の呼吸で、隠れている言葉もあろう、
冗長になった言い回しもあるだろう。
今回は、長く手元に置いて、何度も読み返されることを前提の書籍として、細部の細部まで見直され、入念に筆が入り、まさに完全版となって、目の前に表れた。

2008年11月の1日午前9時半、JR吉祥寺駅で待ち合わせて、僕は彼から真新しい一冊を受け取った。
シリアルナンバーは、偶然にも「33」だったが、レコードファンには「1」番より嬉しい番号ではある。

JazzAudio Wake Up シリアルナンバー

そのとき僕は、読後の感想をWEBにアップするからと約束したのだが、一週間経っても全く書けなかった。
その大きな原因の一つに、故・川崎克己さんの一文がある。

そう、本書には、冒頭の「序文に寄せて」と、末尾の「音楽とオーディオの本質を語る」の二つの章があるが、筆者はどちらも先年亡くなられた音響家の川崎克己さんだ。

もう10数年前のことになってしまったが。
山口さんのご自宅に、僕は川崎さんを引っ張って行った。
当時の川崎さんは、「いまさらビンテージのパラゴンには興味ないよ」って顔で、まあ渋々僕に付き合って一緒に行ったのだ。
有名ブランド指向などカケラもない氏ならではの反応だった訳だ。
が、しかし。
音が出た途端、腰を抜かした。
あの激しい、火の出るような気迫に満ちた録音することで有名な川崎克己さんが、のけぞったのだ。

それ以来、二人は音楽、芸術を語り合う深い仲になった、ときく。
後日知ったたことだが、
僕が知らないところで、克己さんは何度もパラゴン邸を訪ねていたらしい。

話しが横道にそれた。
その故・川崎克己さんの「序文に寄せて」を読んで僕の脳味噌は固まってしまった。
これ以上のことは書けない。

親友の力作に、大病を患った後の川崎さんが、気力を振り絞って書いた一文こそ、この本の序にふさわしい。
氏が亡くなる丁度一年前の文章である。

さて、前フリが長くなってしまった。
著者本人の前書きが書かれた日付は、2008年の7月17日と記されている。
この意味はジャズファンならすぐに気が付くことだが、
分からない人は、7月17日、ジャズ、命日、等の言葉を入れてネット検索すれば、容易に分かるだろう。

かように、山口孝の描くジャズオーディオの世界は、名監督が描写する映画のシーンの如く、徹頭徹尾、細部に至るまで意味が散りばめてあるのだ。
読み手たるもの、本筋から小道具に至るまで、まったく油断はできない。

その力作に解説を加えることの野暮は承知だが、内容について本文中から氏の言葉を引用して、一言書いてみたい。
「・・・私は私が感じた音楽の天才について語りたいと思ったのです。それは私を魅了したのが天才の音楽だからです。・・・・天才とは天が与えた才能という意味です。神に賦与された才能です。一流や二流はどこまでいっても人間の世界です。それは天才の世界とは太刀打ちできません。」

努力に努力を重ね、一流になった人間にだけハッキリ見えてくるのが天才の世界だと。
これより先はもう「神」という言葉、概念を持ち出すしかないのだと。

その概念を持ち出さざるをえなくなったとき、心に浮かぶのは、近づけぬ神への畏敬の念であろうか。


過去に出版されたジャズ評論の殆どが、批評家としての眼差しで音楽を紹介している。
しかし、山口氏の音楽への眼差しに、多くの批評家とは一線を画した深い愛を感じてしまうのは、筆者だけではあるまい。
その愛は、偉大なる天才への畏敬の念に根ざしていると僕は確信した。


この本の中にはジャケット写真入りで紹介されているレコードが相当数ある。
そこには氏が選りすぐった名盤と、聴き手の思い入れたっぷりのB級名盤が入り交じっている。
超名盤の選択をみればこの本が、まさしく氏の中に存在する鋭く厳しい批評眼が幹を為している事を知らされる。
しかし僕らは365日、歴史的な超名盤ばかり聴くわけでもない。
氏の解説は両者の聴き方を、我々凡人を突き放すことなく、暖かく愛ある言葉で語り、さりげなくB級名盤の愛で方まで教えてくれているようにさえ読める。
ここに氏の、音楽と音楽ファンへ寄せる暖かい眼差しを感ぜずにはいられない。


余白に一言。
本書にある著者近影という写真は、筆者が偶然のチャンスに撮影したスナップショットだ。
音楽の神の、後ろ姿を見てしまった男にしか書けない希少な一冊の中に、自分の撮った写真が使われるとは光栄の至極。
この場を借りて深く感謝を申し上げたい。

2008年11月


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