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Vol.15 待ち望んだ一冊の本が世に出た。
ジャズオーディオ・ウェイク・アップ/山口孝(著)


これはやはり、ジャズの本だ。いまやオーディオが存在しなければ聞くことが出来ない、ジャズがジャズで合った時代のジャズを、21世紀の今、オーディオを通じてどう聴くか。それが見事に、彼の言葉で描かれている。

ジャズは過去に多くの評論家が論じ、そして書いた。さらに今もかつてと変わらぬ次元で書き直されている。
けれどここに書かれたジャズは、まるで位相が違う。ジャズミュージシャン「山口孝」が、この本に登場するジャズの巨人になりきって、彼らの台詞を全部暗唱し、さらに完全に自分の言葉に消化し、今この本の中で、生で演じている。その姿は彼らの分身と化した「山口孝」であり、スイングしまくっている。

昔から「山口孝」がライブで発する鋭い言葉は、誰にも真似できぬほどの冴えがある。そこに僕は10代からステージに立っていた人間ならではの本能を感じざるを得ない。この本はCS放送でのトークライブを書き起こしたもの。面白いのも当然だ。

繰り返すが、世間には伝統的筋書きにのっとったジャズ評論、レコード紹介書が数多とある。けれどその多くは古典的評論の朗読であったり、対岸の火事の解説であったりで、隔靴掻痒のもどかしさを禁じ得ないものだった。
もしジャズを頭でなく心で感じたいと願うならば、この本で紹介される名演を手塩にかけたオーディオで思いっきりスイングさせるがいい。

最終章、一関ベイシーの菅原氏との対談。一人称の語りという形式を借りてはいるが、五分と五分の対談であり、二人のジャズオーディオ人生から得た結論がここにぎっしりと集約されている。オーディオの「オ」の字も出さず、たった一つのブランド名も出さずにオーディオの神髄を描いたこの章こそ、本書のハイライトだと断言しよう。オーディオを語るとは、こういうことを云うのだ。過去から現在に至るオーディオエッセイの多くは、登場する機器をカメラや車のような「機械モノ」の名前に置き換えても、実は成り立つてしまう。そのことにうすうす気が付いている人も少なくないはずだ。そういう愛用の機器に淫したような、「よくあるオーディオエッセイ」との本質的差異をこの最終章で読みとって欲しい。この一文を僕は、「まぎれもなくオーディオ史に残る見事な評論文」と言い切ることにいささかの躊躇もしない。

2004年8月、僕らは、まさに痛快の一冊に出会えたといえよう。

(あとがき)
この一文を書いた後、僕は彼、山口孝氏に出会った10年前を思い出した。 NY行きの飛行機の中で偶然隣り合わせた彼。話が弾み意気投合。毎晩、深夜までジャズクラブ巡りをした懐かしき日々だ。帰国後に聴いた驚愕のパラゴンサウンド。彼の異才に気づいた僕は知り合いの編集者達に誰彼なく彼を紹介して、注目を促していたものだった。その後、誌上で出会う彼は一応、評論家だ。けれど本質は評論家ではなくアーティストなのだ、と僕は思う。そういうことをこの頁にいつか遠くないうちにまとめて紹介してみたい。それはあのパラゴンサウンドが僕に示唆してくれたことを語ることに、きっとなることだろう。




Vol.16 表現行為としてのオーディオ

音の道一本で生きていこうとすると、自分が目指していることの行き先ということを見極めていなければ、大袈裟に言えば、人生に迷いを生じてしまう。不惑の歳をとうの昔に通過している身としては、「自分にとってオーディオとはなんだ」ということを自分の言葉できちんと説明がつくようにしたい。そう想いながら、なおかつ結論は見えていたにも関わらず、長年の間に凝り固まった思考回路をほぐすのには、さらに時間が必要だった。その時間とは自ら立てた説に、自らの感覚が馴染むのにかかった時間ともいえる。

最初に見えていたその結論とは、
オーディオとはレコード音楽を基にした表現である
ということだった。
時を経てようやく簡潔にまとめ、99年頃から参加しているオーディオ関連MLの掲示板に開陳したのが昨年の秋。
以下、そのときの投稿文に加筆して掲載してみよう。
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・・・さて、私は原音を忠実に再生するというスタンスから、思想的にはとっくに距離を置いています。
一旦、心惹かれた音楽を胸にしまいこみ、出す音のイメージを暖めています。
生、オーディオ・・・、あるいは音楽以外の他の芸術・・もっと広げてその人の人生体験・・・
そういうもの全部ひっくるめての体験、知識、思想を含めて音のイメージは作られます。

このMLに参加させた戴いた当初から私が断片的に書き、主張しているように、オーディオは自己表現になりうるものです。かつてそういうことを書いたときは皆さんにまったく理解して貰えなかったようですが。
最近の書き込みを見ていると、何人かの方の考えの中に、無意識かもしれませんが、自己表現に通じる思想を感じました。そこでもう一度、書いてみます。

オーディオを楽しむということは、その人の心の中に描いた音楽をスピーカー(広義にオーディオ装置の意味)を使って、自分の目の前に実音として出す表現行為だと、私は思っています。

各人が聴く音楽の中に、それぞれの美を発見する。
発見するレベルも、また、それぞれです。
そして、それぞれの人の筆でその人なりの技量で目の前に音を描く。
素人カメラマンが公園で美しいと感じた花を見てパチリとシャッターを押す。
出来た写真は決して芸術として残るものでなくても、その人の作品です。
その写真をパネルにして飾ると(飾らなくてもだけど)、下手さ加減がよく分かる。
もちろん分からない人もいるけれど。(そう下手さ加減が分かるか否かも重要なこと。)
じゃあ次はこうしてみよう、ああしてみようと。
いやはや、オーディオとそっくりですね。

しかし実は共通した大きなな問題もあるのです。それは上記した「美を発見する目」と「それを表現する技量」とを区別する意識について、認識されていないことです。

以前、プロの演奏家であり大学で音楽の先生もされているお宅に伺って装置をチューンしたことがあります。
その先生、前者に対しては確たるものをお持ちなので、後者のテクニカルな部分を僕がサポートすれば良かったのです。ですから共同作業にまったく支障がありませんでした。

しかしメカニカルなことが好きでオーディオに入門してしまうと、前者を抜きにしていきなり後者のテクニカルなところに入り込むことが多いんですね。オーディオにはそういうメカニカルな魅力もたっぷりありますから。

でも元来、オーディオは音楽を楽しみ、音楽に触れるためものです。
したがって、

「オーディオの最終的な解は音楽というアートの領域に存在する」

と考えた方が素直に思えるのです。
すると物理や数学のように定められた公式に当てはめて答えを得ようとするアプローチには、違和感を感じ出します。しかしながら、日本的な受験勉強で頭脳を鍛えられると練習問題を解いた後に正解の頁を見ないと安心できない精神が養成されてしまうのでしょうか。誰にも分かる正解が生み出せる公式を求める方が、やはり今でも多数のように思えます。原音と比べて殆ど同じに聞こえる、それ故に正解・・という思想はどうも後者のアプローチに思えるんです。

さて僕は単純に美しい風景よりも、裏街をはいずり回るような男の後ろ姿に何かを感ずる人間なので、どうやってもいい風景写真がとれません。オーディオも、自分が魅力を感じた音楽の、もっとも「それ」らしい部分がたっぷり味わえるオーディオの音に、魅力を感じます。

「正しい再生」でなく主観で音を出していいのか?

正確無比、唯一無二の正解などというのは、ことレコードの再生に関してあり得ません。主観でいいと思います。
その主観を、もう一人の自分が持つ批評眼で鍛えていけばいいのです。その結果多くの人の共感を得るようなレベルになることも、また事実です。それを客観というならそう言ってもいいけれど、主観を意識的に排したものに対して僕は何ら魅力を感じません。(乱暴にいえば客観なんて無いんだ、けど)

演奏者もその人の鍛え抜かれた主観で表現しているわけでしょう。鍛えられた主観とは、確たる評価軸を伴った自らの批評眼に耐え得るものなのです。究極的には好き嫌いに通じるかも知れませんが、原始的な好き嫌いとは違うのです。ですからプロが作品を世に出すときは、評論家になんといわれようが、「これでいい」という確信があるのですね。

ここで大切なのは、オーディオは音を出すことより、(美を見つけるという)聴くことの方が難しくて重要なんです。
それ故に、
「その人以上の音はその人に聞こえない」
したがって、
「その人以上の音が出るわけもない」
ということなんです。
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MLに投稿した内容はざっと以上のようなものである。

いま、ちょっと言葉を加えると。
楽器を弾くにも、絵を描くにも、写真を撮るにも、どんな芸術の世界でも、必要な基礎技術というものがある。表現の世界ではその技術を習得したならば、そこから先は決して技術競争ではないことを誰もが知っている。オーディオ機器の技術水準も、音楽を聴くということに対してのハードウエアが具備すべき必要な基本水準はもう達したといって良いように思うのだ。
マイクやSPのように不完全なものはこの先も多分ずっと、不完全なのだ。アンプだって実はそうだ。
その辺を追いかける技術も大切だろうが、基本的に改良であって革命が起きる可能性は見えない。音が空気を媒体としているかぎり、変わらないように思う。

それよりも僕は、自らの内になる音楽をこの手で出してみたい、生きているうちに。
・・・で、あるとき僕はいきなり
「オーディオ機器は全て楽器である」
・・・と宣言した。

この発想に立つことで従来の技術的な束縛から解き放たれ、一気に自由なオーディオの思想に飛躍できるようになった。
しかしいくら自由になったといっても目指す方向が見えない、基準がない。北極星が見えないじゃないか、といわれそうだ。で、それなら原音、生音と比較すればよい、といい出すとまたもや原音再生の話になり、振り出しに戻ってしまう。そこで以下を補足する。

主観について

自分の好きなような音でいいじゃないか。
それも良い。所詮、主観なのだ。しかし「カラスの勝手でしょ」という論理になっては子供の屁理屈か開き直りだ。この段階で素人の主観と鍛えられた人の主観は見えるもの聞こえるモノが違うということに気づかないと大人とはいえない。そう、自らの主観を鍛え確立しなければ、オーディオの音は自分でコントロールなどできはしないのある。

では主観の確立とはどういうことか。
今の時代、ネット上には素人オーディオ評論家が沢山いる。批評言葉はいくらでも羅列できるが、本当に音の判断が出来ているのだろうか。プロの画家、デザイナー、写真家、そして音楽家・・・・。
彼らは自らの作品に対して他人に相談することなく自らの内に持つ美的基準に照らし合わせ「これで良し」と判断して、世に送り出すのである。 先輩の誰かに相談したり批評を仰いだりしないと不安に駆られるなら、「確立」にはまだ遠い。音にうるさいオーディオマニア氏が評論家用語を駆使できても、自らの音に関して、誰が何といおうとこれでいい、と断言できる人がどれほどいるだろう。

オーディオは友人宅を行ったり来たりしてアーでもないコーでもない・・とやっているときが一番楽しい時期なのかもしれない。けれど、実はそのときは自らの中に確信が出来ていないときであり、確たる主観の基準が確立されていないために出る迷いが根底にあるから故の行為、と考えると納得がいく。
先に述べた例のように、それは練習問題の正解を探しているように思えるのだ。
独立した個性とは、先人が作った正解集に頼らず、自らが自信をもって正解と信じられる解を生み出すことではないだろうか。

(2005年5月)

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