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第3巻

Vol.9 小型SPを鳴らす  Vol.10 音の奥行感とオーディオの性能
Vol.11 音楽としてのバランスを崩す勇気  Vol.12 心の中で鳴る音(新宿ガンジー、後日談)
Vol.13 喫茶サタディサン(イルンゴ導入記)
(以下順次追加予定)


 

Vol.9小型SPを鳴らす

最近小型SPを鳴らすのに快感を覚えている。何と云っても小型SPで大型並の音を出せば拍手喝采だ。逆に大型を導入して鳴らせなければ、日々憂鬱、メシも不味いし、仕事も手に着かない。
いい音って何だ、というと百も二百も理屈っぽい定義がなされそうだ。が、小型を大型のように鳴らす、というと連想する音がそれほど違わないらしい。

商売柄、ときどき試聴会じみたことをやる。何人か集まって貰って、衆人注目の前で、チマチマした音から少しずつチューニングして、スケールを大きくしていくと、殆ど異論は出ないものだ。
JAZZファンを相手ならテナーサックスが図太く朗々と鳴り響き、ウッドベースがビッグトーンで、そう、あたかもレイブラウンの様に鳴り出すと拍手である。
クラシックならまずチェロが朗々と唄うようにならないと、その先どうにもならない。そしてピアノの左手領域が何処までも制限無く延びきって出てくると、部屋中にそのスケール感が満ち満ちてくる。
声楽なら声量豊かに、苦しげでなく楽々とストレス無く声が出てくるような鳴り方。それが漫然と描く「大型SPのような音」なのかもしれない。

ところが実はこれ、そう簡単ではない。
実際、大型SPを所有したからといって、買った次の日から4000ccの車のような乗り心地になるほど、オーディオの道は甘くない。 素人目にも大口径スピーカは低音が出るように見えるし、値段も高いし立派そうにもみえる。5ナンバーの車より3ナンバーの方が高級に思えるような心理かもしれない。長年オーディオジャーナリズムで表現されてきた大型SPへ賞賛は凄かった。
風のような、足下を揺るがすような、部屋の空気が揺らぐような・・・、数限りない低音の魅力を彩る形容詞。
先般亡くなられた、オーディオ界の大先達、故池田圭さんは、「低音は音楽のエロティシズムだ」と喝破された。もうこういう形容をされたら誰だって大型が欲しくなるのは当然である。

かくして、いにしえのオーディオマニアは38センチ口径の大型スピーカーに憧れ、無理をしてでも手に入れたものだ。しかし、通常これが仲々上手く鳴らない。ウーハー、スコーカー、ツイータが一体となって鳴り響いてくれないのだ。ジャズを聴けばベースがブンとウーハーから出て、サックスが中音ホーンからカーッと出て、カチコチンとツイータがシンバルを鳴らす。バラバラ。
凄いぞ、と言われるお宅ですら、殆ど全部が全部、ハイパワーアンプを使って、力でねじ伏せたような音だった。いや、実をいうと僕もそういう時代がかなり長かったのだ。今思うと恥ずかしいし、もう戻れない。

しかし今、オーディオ界では小型SPに人気がある。もちろん住宅事情もあるが、大雑把な音から、より緻密な音質をオーディオファンの耳が求めだした、ともいえるのではないだろうか。
大型SPをチグハグにしか鳴らせなければ、これはもう腕が悪いとしかいわれない。

一般に大型SPは鳴らすのが難しい。確かに、日本の住宅事情では、部屋の影響も受けやすく、難しい面もある。しかし最近、どうもそれだけでは無いような気がしてきた。大型SPを鳴らせない人は、実は小型SPも鳴らせないのではないのか、と。
逆に小型SPを立派に鳴らせる人は、大型でも鳴らす。
鳴らせる人と鳴らせない人の、この違いはなにか・・。

オーディオ装置からいい音を出す秘訣。
1,音の判断をできる耳を育てること。
2,適切なテクニックを身につけること。
3,不適切な、或いは適切なセッティングをしたときの、原因と音の関係を身につけること
この3点を押さえないまま、流行のチューニンググッズに走ると、変化はするけど進歩もせず、確実に迷路に入る。

では具体的にどうすればいいのか?
弱ったぞ。それは自転車の乗り方を口で教えなさい、といわれているようで、これはもう実演しかないかな。
(いずれ公開でチューンニングのコツを実演しようと思います。)




Vol.10 音の奥行感とオーディオの性能

オーディオマニアなる人種はオジサンばかしかと思っていたら、最近は僕の所に若きサラリーマンや学生さん達までが問い合わせをしてくる。
音の不思議な魔力に引き寄せられた若者が、一気にオーディオの世界にのめり込んでくる。吸い取り紙のように、僕のため込んだ知識を吸収してくれる。遠慮無くどんどん奪い取ってくれ!まあその分、僕は彼らの若い情熱を貰うけれど。

でもオヤオヤと思うこともある。
彼ら、不幸にも?モノラルを知らない、体験していない。
最近、「現代の」ステレオ装置は水平方向の定位だけでなく、奥行きの表現も出来るようになったのだ・・・と理解されている若い方に遭遇した。
僕はこの「現代の」にひっかかった。
確かに近代オーディオ機器の魅力は深々とした音場空間表現が魅力ではある。
それでは古代の、とは云わないけど、古いステレオ録音は空間表現が出来ていなかったと云わんばかりに思えてしまった。
そこで技術的な意味合いを原点に戻り探ってみることにした。

まず奥行き感には元々ステレオでなくて、遙か昔のモノラル方式でも表現できる原理があるということだ。加えて、オーディオ的にも「奥深い」意味がある。
そこで、今回は「奥行感」、関連語として「前後感」をテーマをとして書いてみよう。

まず原点に戻り、現在主流の2チャンネルステレオで、録音サイドで任意に定位を決められる要素は何か?を確認しよう。
実はこれ、水平方向、左右のスピーカ間に於ける定位だけなのである。
左右の間に決める定位は、スピーカーの開き角度を60度、つまり正三角形の頂点で聴くという約束事の中だと、角度で決められる。
スピーカーの開き角度が60度でない場合は、左右の開き角度に対する割合(%表示など)として表現できる。
簡単な話、モノラル音源をミキサー卓のパンポットのボリュームツマミで任意に決められるし、そのとおりが再生出来る。POPSのボーカルが、誰の家の装置でも殆どド真ん中に定位しているのは録音サイドで「そのように作っている」からだ。
録音製作サイドが意識すれば、誰の家の装置でも中心から15度左に定位、なんてことも出来る。二者のデュオをセンターの左右に振り分けて定位もさせられる。
以上のことを再現するには、左右のSP(およびアンプなどの伝送系)の特性が揃っていること。それが前提であるが。

さて次に本題である奥行感の問題。
こちらは左右水平方向の定位と違って、右のスピーカーの奥50センチの所に定位させよう、なんていう決め方は録音側でも再生側でもできない。角度とか距離のような「数字で表わせる決め方」ができない、ということである。
しかし複数楽器相互の、「相対的な前後位置関係」は可能である。

ステレオマイクと音源の距離関係を考えれば、レベル差、位相差、時間差の3要素から、原理としては奥行き情報も存在する。しかし、左右水平方向の定位のうような正確な表現能力には劣る。
言い換えれば、左右方向定位を決める情報は10万円以下のステレオセットであっても、録音再度の意図がほぼ正確に伝わるが、奥行き方向の情報は、機器の質に左右され、セット毎にちがった表現がなされてしまう。録音系の質でも左右はされる。

ところで奥行感、或いは前後感というのを、僕ら人間の感覚はどうやって認識しているのだろう。脳の中の動作解説は、僕もこの目で見たことがないからできない。けれど、どうやれば前後感を人の耳、あるいは意識に認識させられるか、錯覚させられるか、という逆のアプローチで考えると分かりやすい。
近くの音を遠方の音のように聴かせる・・・・には、間接音を加え、高域を適度に減衰させ音量を小さい方に調整すればいい。(ちょっと大雑把だけど) つまり、直接音と間接音の構成比は、僕らの耳が前後感を認識するのに重要な影響を与えているのである。複数音源のときは遠くに聴かせたい音にちょいと遅延をかけたりすればいい。
鮮度の高い直接音が主体だと前方にあると認識し、間接音成分が多く、音のエッジが鈍ってくると、これは遠くの音と認識する。

今度は逆に、この理屈を再生装置の評価に適用してみよう。
奥行感の出ない装置・・・・・。
これは微少な残響音が出ない装置は確実にそうなる。
さらに音の立ち上がり(応答速度)が遅いと、前後感が出なくなる。これは
近くにある先鋭度の高い音が、遠くにある音と同様のナマッた音になってしまえば、距離差を感じさせる要素がが減少するからだ。
実感出来る例として、近代ハイエンド機器で揃えた装置の中に、タフピッチ銅のような安物ケーブルを投入してみるとよい。すると途端に前後感が無いベタっとした音になり、空間を感じさせる残響音も激減するから、酷いときには昔の3点定位録音のようになってしまう。

次に音像の問題。
現代オーディオ機器で組んだオーディオ装置は不用意にセットすると、音像の全部が引っ込でしまうことがある。この原因は前述したとおりだけど、ことに楽音のエネルギーの大半を受け持つウーハー帯域の音に関して反応が鈍い場合、間違いなく主役たるソロ楽器まで後に引っ込んでしまう。音楽を聴いていて主旋律が浮かび上がらないような時は、一度セッティングなり構成機器の性能を見直した方がよい。

こういう奥に引っ込んだ音を毛嫌いするオーディオファンは、特にjazzファンに多い。
しかし逆に、そういう方のお部屋に伺うと、微かにビリついている音響レンズ付のホーンとか、左右両SPの間にアンプ棚などを、不用意に置いていらっしゃることが多い。
本来の再生音以外に、機器の共振や反射などの少々汚い二次音源から出る乱暴な音をきちんとコントロール出来ていない装置では、妙に音が前に張り出してくる。
引っ込んだ音を前に出す方法として、両SP間の壁を反射性にしたり、物を置いたりする手法もあるが、これもはっきり言って邪道である。

再生装置の立ち上がりエッジがしっかり出れば、本来前方に定位する音像は、きちんと「立体的な塑像が見えるように」前方に定位するものである。

以上を認識してステレオ装置を眺めると・・・。
*左右SP間にぎっしり音が埋まらず空間感が少なければ、微細な残響成分再生能力の不足。
*音像が引っ込んで立体的に浮かばず、前後感が無いのは立ち上がり成分の再生能力不足。
・・・・ということになる。

ここで触れなかった問題も多々ある。たとえばスピーカー形状の問題。さらに逆相成分も含めた空間感や定位などの問題に触れると、これまた奥深いオーディオの録音再生の原理に触れることになって、とても書ききれない。で、今回まずは奥行感、前後感の表現に密接な関わりを持つ基本性能というところに注目してみた。

ちなみに、世に音場派だとか音像派だとか称する人々や、機器類が登場しているが、それは本来両立すべき事柄だとボクは思っている。




Vol.11 音楽としてのバランスを崩す勇気

オーディオは、自らの中で鳴る音楽を目の前に出そうとする行為だ。
内で鳴り響く音と、目の前で鳴る音との差異が大きいということは、感覚の鋭い人種にとって耐え切れない状況なのだ。

オーディオの装置はケーブル1本変えても音が変わる。
変わった変わったとはしゃいでいる内は可愛い。そのうち、あちこち変えて収拾がつかなくなる例のなんと多いことか。
細部に気を取られ、全体のバランスが崩れてしまうことが、オーディオでは日常的に起きる。とにかく音楽を気持ちよく聴くには、エネルギーのバランスが必要だ。
これを崩すと、あいつは音楽を知らない、と必ず陰口叩かれる。

だが、しかし・・・・。
ときには細部に拘って気づいた音の中に、魂が宿っていることもある。これを見逃すと、「その先」は無い。
で、その「宿っている魂」を見つけたと確信したときは、誰がなんと言おうが、なりふり構わず細部を徹底追及する姿勢も必要なのである。

なぜ細部を馬鹿にしてはいけないのか。
全体としての音楽的バランス感覚を最優先すると、装置の中の一番低いクオリティの機器に寄り添うような形になりやすいからだ。
古い装置に不用意に最新鋭の機器を入れると、何とも奇妙な音になることをベテラン諸氏はご存じでしょう。CDのデビュー当時、アナログ的旧主派の中に、CDの情報量を適度にナマらせることでバランスをとった人がなんと多かったことか。情報を捨てて、ナローと云われようがボケと言われようが、楽音を知っている常識的な人ほど、ピラミッド的な落ち着いた音を求めた。

しかし、音に関して感覚の鋭い連中は、当時からバランスが崩れようが何しようが、その先にある、装置全体のグレードが格段に上がった時の音を心の中で密かに鳴らしていた。彼らは今もまだ心の中で鳴らしているだけで、完全に全部を鳴らしていないかもしれない。
だが、クリエーターがいつもそうであるように、現実より先に、できあがった時のイメージが自分の中に出来ていれば、なにも怖くない。
先を目指して進めばよいのである。

そうやって、感覚の鋭い連中の力で、オーディオは進歩してきたのである。
細部にこだわりすぎて全体のバランスが崩れた時は、苦しい。
「その先の光明」を見つけた喜びで友人に聴かせたりすると、バランスの悪さを指摘され、がっくり落ち込む。
アイツにはその先の音が分からないだけだ、と内心思う。
今に驚くぞ、と敗者復活を賭けてさらに励む。

時には次なるステップへの革命として、装置を全部をひっくり返すようなことさえもあるのだ。
僕はこの数年、実は自分の装置をひっくり返してきた。
不注意で機器を壊してしまったこともある。仕上げまで、まだ1年以上はかかろう。
大変なパワーが消耗させられる。
自分のスタイルを確立するためのエネルギーともいえるし、オーディオにおける自説を、音で証明するために必要なエネルギーともいえる。
イルンゴというブランドを立ち上げた以上、何が何でも、トータルで完成された音を僕は聴いて貰いたい。

一生の中で、何度、こういうことができるのだろう。

オーディオ界では殆どの先人が1回で終わっているようだ。
アナログ時代にスタイルを完成して、以後そのまま、ついにCDに触れずにいる人。
コンクリートホーンのスピーカと寝食を共にして、ホーンの中で暮らした人。
JBLやタンノイに惚れ抜いて、これを使いこなすことに一生を捧げた人。
・・・・・・・
人、それぞれである。

現在の平穏。
そのバランスをいったん崩しても、さらなる何かを生み出したいという気力。
この気力は、「その先で聴こえている音」が魅力的で有ればあるほど、沸いてくるものなのである。
この頁を読んでいる貴方、「その先の音」、聴こえていますか?




Vol.12 心の中で鳴る音(新宿ガンジー、後日談)

それは昨年の晩秋のことだった。
新宿さくらや裏にあるカレーショップ、ガンジー。
この店のオーナーMさんから突然メールを頂いた。

このお店のことを僕がWEBに書いて一月ほど経っていたのだが、メールを読んで僕は驚いてしまった。
あの音は本物だった・・・。

私信なので全文を公開することは控えるけれど・・・。
Mさんのメールには、
「音のイメージは30年位も前のピットインが原点にある」
「4−5人までのコンボでの演奏が基準である」
「20代の始め頃、ピットインで働きながら聴いたナベサダや日野照正、あるいわ山下洋輔トリオ、そういった人たちの演奏、そして音響がいつまでも耳に残っている」
「限られた条件のなかで出来るだけ再生したいと思って、悪戦苦闘してきた」
・・・・などの事柄が丁寧に書かれていらっしゃった。
さらに
「たまにあの店に徹夜で泊まり、朝まで思う存分ピットインの再現を楽しんでいる」 という下りを読むに至っては、僕が夏に聴いた「あの音」の秘密を教えて頂いたような嬉しさと、そして自らの洞察の浅さに恥じ入る気持ちとが複雑に入り交じって、感情の高まりを覚えてしまった。
Mさん僕も同じ団塊の世代。
あの三島由紀夫の割腹自殺の有った日、おなじ新宿の目と鼻の先にいたことなど、驚くことばかり。
Mさんはその後NYへ旅だったという。

さて僕は、ガンジーの音に対する不覚を次のようにお詫びした。
___________________________________________________
不覚にも小生は、ガンジーの音は「本格的にオーディオを(自宅で)やっている人の余興」と認識しちゃったのです。
オーディオ的な性能が前面に出ず、力みが無くスムーズでバランスがひたすら自然。
ニューヨークの裏町で聴けそうな、とでも言いたくなるような陰影のある音・・。
奇抜なデザインで、近代的で、或意味オーディオチックなB&Wから、あのような音を出しているのが不思議でした。
サブシステム故にまったく何もこだわらないからなのか、、それとも、よほどの達人か・・・。

小生にとってオーディオとは、
「自己の内で鳴り響く音や音楽を目の前の装置で出そうとする(ささやかな)自己表現」
としています。
逆にいえば、自己の内で音楽が鳴っていない人は永遠に、音楽以前の音しか出ない・・のですが。
(中略)
ガンジーの音も細かくは覚えていませんが、
核心だけが印象に残っています。
心の中に残った音、それが真実の音ではないか。
最近、音についてそんな風に思っています。
心の中で美化されてもよいのです。
美化される価値があったということ。
それこそ真実だと。
___________________________________________________

ガンジーの音には、ピットインの匂い、或いはコルトレーンの死後数年しか経っていないNYの匂いが、きっときっと隠されていたにちがいない。
しかしその匂いは、嗅ごうとして鼻をピクピクさせても分からない。
同じ時代を生きてきた動物が嗅ぎ分ける臭いなのかもしれない・・・・。

たった一瞬出会った音の世界。
その音を挟んで、30数年前と現代をタイムスリップしながら成り立った会話。
インターネット時代ならではの奇遇を感じた出来事が、僕にはとても嬉しかった。




Vol.13 喫茶サタディサン(イルンゴ導入記)

その彼はまだ30代の前半。
十分に若く、人生に対してすこぶる精力的だ。
後にきいたことだが10代ですでに身を起こし、自らの責任で大勝負にでて、ビジネスに成功しポルシェをかっ飛ばすような凄い「少年?」だったらしい。
恐ろしいほどに早熟で、凡人には計り知れない仕事度胸を持った人のようだ。

昨秋のある夕方、その彼から電話を貰ったのが出会いである。
友人の持つイルンゴ製オーディオケーブルを聴かせてもらって感じるモノがあったらしい。鋭い質問をなさる。

といったところで、オーディオに使うケーブルなんて、本来プラスとマイナスの2本の線が繋がれば、どんな線だって音くらいは出てしまうのだ。理屈をつけたところで所詮、音質なんて伝わらない、と思っている。
もちろんすでに理屈と音との因果関係を体験している人ならば伝わるだろう。
けれどその特長を捕まえ体験し、「音の特徴」として認識している人が一体どれほどいるだろか。
だからオーディオにおける数字的特長なんて制作者の自慢話みたいなモノなのだ。
どうだ、スゲエだろうという自慢を、そのまま言えないから数字で置き換えているようなものだ。
ふーん、そうかあ、と素直に感心したら相手のの思うつぼ、と思った方がいい。
歪みやノイズが多かった昔なら、それは十分に自慢できる立派な技術的成果だけれど、成熟した現代のオーディオシーンでは、音と音楽表現とオーディオの数字との関係は、そうそう安易に言葉では結びつけられないものだ。
いまどき音を数字だけで語れると本気で思っていている設計者も希少だろう。
重要なのは背景にある設計思想なのだが。

あ、話がそれてしまった。
その彼と僕が、「電話で音が分かり合えた」と思うような仲になれたのはなぜだろうか。
彼は60年代、70年代のロックンロールを聴く。
僕はジャズは聴くけれど、正直、彼の好むジャンルは殆ど聴かない。
そこで二人はブルースの話しなどをしながら、音楽の表現にとって必要なことなどを共通語として、兵庫県と東京都の間で連日のように長距離電話が繋がった。

そうこうするうちに彼からデジタルケーブルの注文が来た。
製作して送ると、着いたたその日に、「音を聴いてびっくりしたと」いう電話が入る。
その後しばらくして発売になった後付パーツ、WBS-1を導入。このときもまた、感動的な電話が入る。
たったデジタルケーブル1本しか導入していないのに、彼の言葉を聴いていると、まるで全てをイルンゴ製品とイルンゴ式チューンで固めた僕の装置で聴いた後のような感想が飛び出してくる。
続けて、パッシブフェーダーcrescendo205Sとオーディオケーブルの注文が入る。
製作スケジュールが一杯なのでお待せすること1ヶ半月。やっと製作して納入。電話口の向こうには、もう完全に僕と同じ音で音楽を聴いている、と思えるような彼の興奮した声が聞こえてくる。
彼の音質を評する言葉は、制作者である僕が認識している音の核心をズバリ突いてくる。
同時に同じ音を聴かなくても、たとえ聴く曲が違っても、彼と僕は、音楽の中に同じエッセンスを感じていたのである。

そして街に枯葉が舞い散る頃、彼はついにイルンゴのデビュー作にして代表作でもあるDAコンバータ、model705の最新バージョンを発注してきた。
高額な機械である。
しかも彼はこれを一度も聴いていない。
今まで納入してきたケーブルやフェーダー、置き台のgrandezza、それに電源関連の細かな部品、そのどれをとってもまったく同じ方向を目指していて、確実に階段を上がっているのだから絶対間違いない・・・そう信じる、と。
彼はそう云ってくれた。
そこまで信じてもらえれば制作者冥利。彼の期待に応えようではないか。

しかしmodel705の最新バージョンは、内部配線もanimato化(イルンゴ式のシールド構造)が随所に張り巡らされ、プリント基板など形だけ。音よりも生産効率を優先しようという合理化された工場的発想などは一切存在しない。
全ての仕事を丸一ヶ月止めないと完成できないのである。半年ほどの中で仕事のやりくりをして、製作する。
そう、良い仕事をするには気合いをため、漲らせることも必要なのである。
やり出したら一気呵成。電話も留守電状態になる。
(その節は関係各位にご迷惑をおかけしました。この場を借りてお詫びします。)

翌年3月某日。
その彼がイルンゴを訪れた。
初めて見るDAC、705。
目を細め頬ずりするように見る彼の視線。
直前まで片側が故障したままだったパワーアンプを、急遽直して彼の上京に備えて準備した僕は、選りすぐりの1曲をかけた。
ロックの好きな人だ、でも我が家にロックは無い。ロックファンはギターに抵抗がないだろう、という単純な理由でギターにした。
名手パットマルティーニがギルゴールドスタインのオルガンとのデュオで見事な演奏を聴かせるJAZZの名曲「YOU DONT KNOW・・・」だ。
かれは正直にのけぞった。
あとはもう、僕が名演奏だ、と信じる曲を聴いて貰えばいい。
感度のいい人はジャンルが違っても、直感で凄さを感じ取れるものだ。
ご同行された奥様が、次ぎ次に掛けるCD番号をメモされていた。音楽が好きなだけでなく、イイワルイがピンとくる奥様のようだ。なるほど、お似合いのご夫婦。

オーディオとか音楽はノーガキをいうまえに、パッと瞬間的に聴き手の心臓を鷲掴みにするようなものであって欲しい。
そしてまた聴きに手もそれを感じ取る閃きがなければ、一線を越えるよううな再生音を出すオーディオオーナーにはなれないんじゃないだろうか。
月に一度の休日。
彼らご夫婦はわざわざ姫路から高い交通費と宿泊旅費を出してイルンゴを体験しにきたのである。
その熱意に答えたい。
「石原さん、安心して待っていて下さい。貴方のお店のJBLは私が責任を持って鳴らしてみせます」
自信を持ってそういった。
モノを売っているつもりはない。音で勝負し、音を買って頂きたいのだ。
その日の後半は、ロックの狂気で僕の装置が乱舞していた。

2003年5月末。
ついにmodel705が完成して兵庫県の喫茶店サタディサンに送られた。
翌日、驚喜の声が電話口から聞こえてきた。
よかった。
事前にスピーカーの置き台も機器の置き台も、すべてgrandezzaになっていた。電源関係もイルンゴ指定の方法に電気工事屋さんがしてくれていた。
705を迎える準備は完了していたのだ。
置いただけで、ポンと、期待した音が出た、と電話の向こうの彼が叫んでいる。

大物DAC製作で遅れていた他の仕事を一気にかたづけ、翌週、兵庫県に向かった。
機材を買って、接続して、十分満足している方の所に何をしにいくのか。
かれは今、十二分に満足していると電話口で告げているではないか。
お店に着くと、まずは自慢の自家焙煎コーヒーを戴いた。、
いまこの原稿を書いている深夜でも「コーヒー」とキーを叩いただけで飲みたくなるほどコーヒー好きの僕だ。けれどこの日ばかりは全身が耳状態。味など分からない。
で、まずはその音を聴いた。

十分にいい音であるが、まだ、世間の中での高水準。一線を越えた世界にはたどり着いていない。あと一歩でもっと凄い世界にいけるはずだ。
じっくり聴くと、電源の極性が逆、という音が聞こえてくる。
SPの足位置がずれているような音も聞こえる。
トランスポート足下のインシュレータの位置がずれたような音も。
ほんの僅かと云えば僅かなことだ。気づいたところを修正する。
少しずつ音がほぐれてくる。
あと一歩だ。

しかし、どうしても最後の一線が越えられない。
JBL、K2-5500はホーン帯域だけが張り出し、低音の伸びが不足。
機材の裏側をなめ回すように覗き込む。どこかに原因があるはずだ。
見つけた!
アンプの出口のSP端子に、SPケーブル付属のYラグとバナナプラグが刺さっている。とくにバナナプラグはニッケルメッキ下地の金メッキのキャップがネジ式で付いている。これは最悪である。
マニアが作ったSPケーブルだし、改造を嫌う僕は困った。
このキャップ、ドライバで外れませんか?
ギャラリーが集まってきて、論議白熱。アーダコーダやっても、そのコネクタキャップは本体からケーブルを半田ゴテを使って外さない限り、外れない。
オーナー石原さんが叫んだ。
「ちょん切りましょ!」
私「本当に、本当にいいんですか?」
「いいです。やって下さい」
決断は下された。

集まったオーディオ仲間達の前で、僕は金色に輝くその高価なバナナプラグを手に取り、
複雑な端末処理を外し心線を剥き出しにして、アンプの出力端子に直接挟み込んだ。
電源投入。
ズバッ!と、音が堰を切って出てきた。
まるっきり抵抗無く楽々と音が空中に舞い上がり、低音が部屋中に充満する。
音がSPから離れた瞬間である。
このとき石原さんと僕は思わず握手をしてしまった。
二人ともこれで完成した、と瞬間にして直感したのである。
これ以前、彼と僕は電話のアッチとコッチで、同じ音を聴いている、と確信していた。
実際には、オーディオを職業としている僕が聞いてみると、少々手直しすべき箇所があった。僕の出した技はオーディオ雑誌などには書いていない、機器を設計している人間だからこそ知りうる知識と音体験を総動員している。

オーディオというのは本当はこの水準まではプロがやるべきなのだろう。
しかし、それでも僕は想う。
彼と僕はやはり同じ音を聴いていたのではないだろうか。
彼は現実に出ている音以上の、音楽の中にあるものを既に感じ取っていたのである。
僕はただそれを、彼の目の前に出しただけである。
だからこそ、最後の音が出た瞬間、二人ともこれでOK、と瞬間的に判断できたのである。
世間には「音まみれの日々vol.11」に書いたように、「その先の音」が聞こえる人と聞こえない人がいる。

現実の音の、それより先の音。
それが聞こえる耳を生まれながらに持っている、彼はそういう人だった。

2003年 夏

兵庫県神崎郡福崎町西田原234-1
自家焙煎のコーヒー店、サタデーサン 夜間が音楽専門の喫茶店となります。
0790-23-0711
「愛用者の声」の頁に、サタディサンの店主、I さんから頂いたメールを掲載させて頂きました。タイトルは「そのときミュージシャンが現れた」です。
ぜひご覧下さいませ。
 
装置:スピーカー:JBL K2-5500 
パワーアンプ:管球式 50W×2
プリ(パッシブ):イルンゴ・オーディオ crescendo205SN
DAC:イルンゴ・オーディオ model705S
CDトランスポート:エソテリックP-0
ケーブル:SPケーブル以外はイルンゴ・オーディオ製
SPケーブル:近々イルンゴ製を導入予定 (2004.1月現在)
オーディオボード 全てイルンゴ・オーディオのgrandezzaシリーズ

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